人事異動って、普通の会社とかだと、1ヶ月前ぐらいに、それとなく知らされるらしいですよね。
しかし私はサラリーマン時代だった3年前に、辞令前日に東京→大阪行きを聞かされました。
明日の社員集合では、みんなの前で一言挨拶を頼むと・・・。
なんで前日かと言えば、「他社にどこの事業部を強化しようとしているかがバレるから」と事業部長が言ってましたが・・・。
辞令なので、「行きなさい」。行かないことはクビという事になる訳です。
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入社10年ぐらいは、給料が安くて有名な大日本印刷という会社のサラリーマン時代、自分が所属していた事業部は、何時に帰っても残業代が一定額(自己采配で仕事を進める、いわゆるフレックス)で、夜は休憩所でテレビを見ていても文句を言われませんでした。
で、3年前、休憩所でサッカーの試合を見ていたんです。
2003年3/28(金)のことでした。
そのサッカーの観戦中に事業部長がワタクシめの後を通りかかり、「おっ、サッカーどうだ?」なんて話し掛けたりしたんです。
また、一方では、その日は人事異動が近い日でもありました。
異動がある場合は、3/31(月)に人事異動の内示が出ることは知っていたので、金曜に何も聞かされないということは、異動はないだとうと思っていました。
そんな感じだったので、その土日もフワーっとして過ごして、月曜日に普通に会社に行ったんです。
近くのセブンイレブンで朝飯買って。(いつも出社して朝一のメールチェックしながら食べてました。)
朝食を食べ終わったタイミングを見計らったかのように(実際見計らったらしい)、室長が声を掛けてきました。
室長「もっちー(←私のこと)、ちょっといい?」
私「はい?」
室長「ちょっと下の階へ・・・。」
私「???。はい。」
「お、これは異動か?市谷の企画ビルにでも行くのかな。」なんてドキドキしながら2人でエレベーターに乗って会議室へ。
そこには金曜日のサッカー観戦時に声を掛けてくれた事業部長が・・・。
事業部長「もっちー。今日は君がビルの中で一番最初の通達相手だよ。」
私の心の中(!!!。普通じゃないぞ・・・。)
私「えっ、最初ですか?」
事業部長「うん・・・。」
(一息おいて・・・。)
事業部長「関西商印に行って欲しいんだ。」
私「!!!。(言葉が出ない)」
(うろたえて、数秒流れる。)
私「関商って・・・、関西へ行くってことですか?」
事業部長「うん。そういうことになる。」
・・・・・・。
今思い出そうとしても、この後の事業部長とのやりとりを覚えていません。
そうとうショックなことがあると、人って現実逃避するんですかね。(汗)
というかですね・・・。
金曜のサッカーを観戦していた時には、完全に決まっていたんです。
教えてくれたっていいじゃん。(今だから笑える)
ということがあったので、この時期にサッカーがあることを鮮明に覚えているんです。
異動を伝えられたその日の午前中は、何も手につかず、人として機能していなかったのを覚えています。
その夜には、10人ぐらいの同期が集まってくれたので、焼肉屋で飲みました。
優しい仲間達です。
次の日の9:00には、人事異動を知らせる集会みたいなのがあって、100人ぐらいの前で挨拶をしました。
何を言おうかな〜と考えていましたが、季節ネタを使ったので、この内容はまだ覚えてます。
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えー、第二開発室のもっちーです。
暗い雰囲気なので、少々明るめに・・・。
会社って怖いところですね。(つかみで、みんなの笑いをとれましたが、事業部長の顔はひきつっていました。(苦笑))
先週の金曜日に何も聞かされなかったから、人事異動なんて、自分は対象外だと思ってましたよ〜。
そしたら、昨日、いきなり関西へ内示でしたよ。いやー、参っちゃいました。
でも、今日が4月1日で良かったと思いますね〜。
いやいや、エイプリルフールだからじゃないですよ。
入社式なんだと思います。
地下鉄のホームで、スーツを着ていて、友達同士でネクタイを締め合っている新入社員の団体がいたんです。
まあ社会人として重要なのは、身なりばかりではないとは思いますが・・・。
で、入社式に臨んだ自分の二年前もあんなだったんだな〜と思いました。
そして、やる気に満ち溢れていたんだと思います。
でも最近、その「やってやる」根性があった事を忘れていたみたいです。
大阪へ行ったら、入社当時のキモチに戻って、やってやろうかと思います。
皆さん、短い間でしたが、本当にありがとうございました。
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しゃべる直前に考えたのですが、あのなんとも言えない状況で、今でも、よくこんな話をできたもんだと思っています。
知り合いの方を見ると泣いてしまいそうになったので、なるべく上の方を向いて話をしたのを覚えています。
突然の転勤で、東京から大阪へ飛ばされることになったワタクシめ。
いつでも会えると、友人関係をおろそかにしていることに気付きました。
もっと友達との時間を過ごせば良かったと思い、とても凹んだのを覚えています。
そんなこともあり、引越しまでの2週間、飲みの誘いが毎晩あったので、毎晩飲みに行きました。
・会社同期と2回
・会社の所属していた開発室の同僚と
・事業部長と室長と自分と三人で
・世話になっていた会社上司と
・大学の研究室同期と
・大学サークル関係者と
・その他あと3回
ホント、よく飲みました。(苦笑)
東京勤務の最終日、会社同期との飲み会が終了し、夜、センチな感じで(←死語?)、ほろ酔い気分で当時の会社の寮に戻ってきました。
さあ、明日は引越しなんだよな〜・・・。
この社員寮の近くの景色も見納めだな〜・・・。
そんな事を思っていたのを覚えてます。
ふと見ると、寮の自分のポストに、一通の手紙が届いていました。
封筒を見ると、「HONDA」の文字が・・・。
「うっっ。まさかね・・・。このタイミングで知らせが着くのは面白すぎる・・・。」
そのまさかでした。
3月の中旬あたりに、ネットで本田技研(本体の開発技術職)の中途採用情報が流れていたんです。
当時(今もですが)、HONDAは過去最高益、人型ロボットの「ASIMO」の開発、航空事業への進出を決めていて、当然大日本印刷社よりも給与も待遇も良く、そりゃーもう、入れるものなら入ってみたい企業だった訳です。
シャレ半分で、「入社したらどんな事をしたいか」を、チョコチョコっと書いてエントリーをしてみました。
そんなに簡単には行かねーわなと思ったり、異動騒ぎの事で、正直な所、エントリーしたのなんて、すっかり忘れていました。
で、中を見ると・・・。
「試験と面接を行うので連絡をください。」という知らせでした。
つくづく、いろんな事って重なるな〜、振り回される面白い人生だな〜と感心しました。
結局、その次の日は土曜日だったので、月曜日に連絡をしようと思いました。
で、次の日。
当時、会社では、東京→関西への出張は、自費でキップを買うのではなく、会社の事務のお姉さんから「キップ2枚(往復)」を渡されます。
でも今回会社から渡されたのは「キップ1枚」なんです。
その「1枚」しか渡されなかった時、「そうなんだよね・・・。片道だけでいいんだもんね・・・。」って、やるせない思いで受け取ったのを覚えています。
こんな感じで受け取ったキップを握り締め、いろんな想いを抱えながら、2年間お世話になった寮長に挨拶をすませ、当時兄が居た、京都へ向かいました。
東京→京都なので、当然静岡県を通る訳です。
私が今住んでいる実家は由比町なのですが、由比町は新幹線の通り道でもあります。
東京駅から新幹線に乗ってから、三島あたりまで寝ていましが、目がさめたので、せっかくなので由比町を通り過ぎるまで外を観ていました。
通った中学が見えました。
「こんな感じになって、新幹線から中学を見ることになるなんて、一ヶ月前は思いもしなかったな・・・。」
なんとも言えない気持ちになったのを覚えています。
京都に着きました。
いつも普通にホームに降りるんですが、やっぱ感じ方が違う訳なんです。
「着いちゃったよ・・・。」
「来ちゃったな・・・。」
関西の方(JR西日本)では、山口百恵の「いい日旅立ち」の着メロみたいなのが流れてきて、そんな感情をそそるんです・・・。
京都には兄が出迎えてくれました。
兄のアパートは京都駅近くでした。
夜は、せっかくだからと一緒に出掛けて夕飯を食べに行きました。
会社から引越し身支度代10万をもらっていましたが、自分の場合は全然使わなかったので、自分のおごりで豪勢にすき焼きを食べました。
肉、肉、次も肉。
そんな感じでした。(苦笑)
その後、京の夜の町を歩きました。
近かったので、祇園と呼ばれる所を歩きました。
ちょうど桜が散るころの夜桜。
めちゃめちゃキレイでした。
その頃、森山直太郎の「さくら」がヒットしていたんです。
「さらば 友よ 旅立ちの刻・・・」
自分の凹んだ感情に追い討ちをかけるように曲が重なって、とっても印象深い桜になりました。
今思い出しても泣いちゃいそうです・・・。
京都に向かった次の日、兄のアパートを出て高槻市に向かいました。
会社の寮が高槻にあるからです。
高槻寮に着いて、寮長さんに会いました。
寮長「荷物が届いてはいますが・・・」
気まずそうな寮長さん。
寮長「荷物で部屋がいっぱいに・・・。」
東京の中村橋の寮は広い方だったのですが、この高槻寮は少々狭かったんです。
扉をあけたら・・・。
ダンボールがいっぱい。
足の踏み場もないとはこういうこと。(汗)
とりあえず、空き部屋に一時避難させました。
数日間は荷物を広げずに、ダンボールとともに暮らしました。
さて、次の日、月曜日。
大阪の北新地にある関西の拠点に出社しました。
出迎えてくれたのは、N本部長でした。
N本部長こそ、今回の関西への異動騒動(?)のきっかけの張本人。(だと思う)
実は私が異動する一年前に、関西に異動していました。
この方は私が入社して一年間、配属された部署があるビルのトップの人でした。
東京にいる時(入社一年目)「〜で飲んでるから、とりあえず来い。」と電話が掛かってくると、私はダッシュで会社から飲み会会場まで走る・・・などという、そのビルの自分の同期の中では、私が一番仲良くさせて頂いていたのですが・・・。
この方が、私を関西へ呼び寄せたです。(多分)
だって、それ以外、関西商印事業部なんて、繋がりもなかったんだもん。
私の人生設計なんてお構いなしに・・・。(苦笑)
本部長「ご苦労さん。良く来たな。」
私の心の中「本当にご苦労ですよ・・・。」
↑こんなこと言えるはずもなく。(苦笑)
でも、まあ、やはり、光栄なことだったと思います。
いくら上の人の希望とはいえ、入社3年目の若造を、簡単に異動させたりはないでしょう。
というか、自分の楽しみのためだけに、私を連れてきたとは思いたくなかったです。
コイツなら、なにか面白い仕事をして、部署を活性化してくれると見込んでの事だったのでしょう。
真相はわかりませんが・・・。
そう信じたい・・・。(苦笑)
関西に出社したのは良いものの、やはり、転職面接の知らせがきた本田技研の事が頭から離れません。
昼休みに電話を掛けました。
自分:「私、関西に転勤になっちゃったんですが・・・。」
先方:「前日の宿泊費等も出ますので、興味がわいているのならば、来てみてください。」
さすがはHONDA。ふとっぱらだと思いました。
試験や面接の日は2週間後でした。
で、関西への異動の2週間は、N本部長命令で、その事業部の新入社員の子達と、新人研修を受けました。
その子達は、やる気満々な訳です。
私は、2週間後のことばかり考え、複雑な思いを抱えながら、工場見学やら、いろんな子会社などを回る、2週間の研修を受けました。
2週間後。
金曜の夜、東京に向かいました。
その時初めて知りました。
10分置きぐらいに新大阪駅を出発する東京行きの新幹線「のぞみ」。
これ、金曜の夜は、ほとんど満席になってしまうんです。
こんなにも、東京に向かう(帰る?)ビジネスマン達がいるんだね・・・。
大変な思いをしながら、こういう人達が日本や関西を動かしているんだね・・・。
自分は自分の人生に振り回されて、東京に行くんだ・・・。何やってるんだろ・・・。(苦笑)
そんな事を考えたのを覚えています。
途中、当然、静岡を「通り過ぎ」ます。
由比町を通り・・・。
通った由比中学の体育館の明かりが見えました。
その時、私の「何やってるんだろ」感は、最高潮に達しました。(苦笑)
東京に着きました。
2週間前に「出発」した場所。
いつもとは違う場所に見えました。
普通だったら・・・。
「ちょっと東京戻ってきたから、飲もうよ〜。」
なんて電話をかけるのですが・・・。
盛大に送り出してくれた、会社の同期、大学の友人にそんな事も言う訳にも行かず・・・。(汗)
ひっそり一人で新宿のビジネスホテルに泊まりました。
外に遊びに行く気にもなれず・・・。
この感覚はなんとも言い難く、寂しかったですね・・・。
土曜の朝。
前日に、関西から東京に来て、新宿のビジネスホテルに泊まった私。
ビビって夜も遊ばず、酒も飲まずにいたら、目が早く覚めてしまいました。
池袋から東武線に乗って和光市へ。
早めに着いてしまった私は、HONDA社の周辺を歩きました。
広い敷地でした。
時間をつぶしてから試験会場へ。
50人ぐらいが集まってました。
「そうだよね・・・。みんな入りたいんだね・・・。試験だって、この日だけじゃないだろうし・・・。競争率、高いな〜。」
と、少々あきらめムード。
午前中に、クレペリン検査(就職試験で良くある、延々と単純足し算をやって疲れるヤツ)、数学、英語、社会、化学などのテストをやりました。
クレペリン検査は、やっぱり疲れました。
数学、社会は高校時代の記憶をたどって・・・。
化学はとりあえず、化学専攻だったということで・・・。
英語は、その3月まで、会社主催の英語研修を週一回受けていたので、なんとか・・・。
で、午後に面接。
やる気と空自信を面接官に見せておいて、あとは「この2週間前に突然大阪に転勤になってしまいましてね〜。」と、その場の笑いをとっておきました。
帰り。
領収書を渡したら、東京⇔大阪の往復の新幹線代、電車賃、ホテル代をくれました。
さすが儲かっている会社は違う。
試験結果は後日郵送との事。
日曜に予定があったので、そのまま関西へとんぼ返り。
またもや新幹線から由比町を見ながら、「何やってるんだろな〜。」
転職面接を受け終わって、関西での業務が本格的にスタートしました。
当然、結果が気になって、仕事に本腰がはいりません。(汗)
2週間後ぐらいに実家にHONDA社書類が郵送されたことを電話で聞きました。
なぜに実家かと言いますと・・・。
会社の寮だと、多くの人の目についてしまうからです。
中を見てもらったら・・・。
「健康診断と面接をするので、また来てください」
との感じのことが書いてありました。
さらに、業務に本腰がはいらなくなってしまいました。(汗)
そのまた2週間後。
金曜の夜、新大阪からのぞみに乗って、東京に向かう自分がいる訳です。
一ヶ月前と同じように・・・。
当然、盛大に送り出してくれた、東京のみんなには誰にも言えない・・・。
また、一ヶ月前と同じビジネスホテルに泊まりました。
翌日。
一ヶ月前と同じ会場に向かいました。
今回は、私と同じように試験に来ている人が2人でした。
まずは、その人達と一緒に健康診断を受けました。
血もとられました。(痛)
その後、一人一人面接を受けました。
「年収は〜ぐらい欲しい。自分にはそのぐらいの利益を出す自信があります。」
なんて、まったくの口先だけの空自信の話もありました。
終わってまた関西にトンボ帰り。
関西では、仕事に本腰が入らない日々が続きます。
この面接結果が出るのは2週間後のはずでした。
しかし2週間後・・・。
「もう少々時間をください」との連絡がありました。
そんなこと言われれば、さら、仕事に本腰が入らない日々が続きます。
その後また2週間、計1ヶ月ぐらい掛かりました。
で、結果は・・・。
「見送らせてください。」
落ちる予感はしてました。
2度目の面接の時には、関西での「新しい生活」も面白いな〜と感じていて、それが面接に出たのがわかったからです。
このHONDA騒動が終わったのが、3年前の6月頭ぐらい。
関西に渡ってからの、4〜6月頭の2ヶ月間も、いろんな事に振り回される、精神的にきつい日々でした。
でも、いい思い出、いい経験となりました。
その後の半年後、会社を辞めるまでも、なかなかの経験ではありましたが・・・。(終)
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